Sさん (青年) |
ルワンダに行ってみたいなぁと初めて思ったのは、3年前。
広島で佐々木さんとカリサ牧師にお会いし、初めてルワンダの事を知った時。
それからルワンダの事を知ったものだから、私の中のルワンダはジェノサイドでいっぱい。
ジェノサイドの起こった国の一つ、ルワンダ。そうした偏った見方のまま、私は神様の押し出しによりルワンダに向かった。
そこで私達が出会ったのは、本当に笑顔の美しい、私達を喜んで迎え、コミュニケーションが大好きで、歌も好き、子どもの育つ希望の国。
満天の星に美しい丘、多くの魅力を持っている国だった。
いたずらっ子に、勉強できるから英語が喋れるのだと鼻高々な青年、日本のためにも今も共に祈ってくれている人々がいる事、
涙の国ではなく、笑顔もある国だという事を、まず日本の方々に強く伝えたい。
飛行機からルワンダを臨んだ時、私は幾分か怯えていた。この地は何を知っているのだろう。
赤い土が見えた。緑の樹木。川も流れている。屋根が光り、車が走り、人々が生活している。
15年の歳月を、ルワンダの人々はどのように過ごしているのだろうか。
帰ってくる時、どんな眼差しを送るのだろうか。
機体から降りた時、不安、期待、高調を諌めるかのように雨が降った。気を取り直して眺めたルワンダの景色は美しかった。
車の中の外国人である私たちに手を振るルワンダの方々、それを笑顔で手を振り返す中、最初であり、最も私の心がえぐられた出会いは2日目の事。
ニヤマタの教会を訪問し、案内してくださったフィゼルさんの痛みに触れた時。
彼の親戚がこの教会で亡くなった。
教会の風貌といえば、門は手榴弾や人の手によって歪み、壁や天井には銃弾や手榴弾の破片により傷んでいた。
礼拝堂の椅子には犠牲者の衣服が積み重ねられ、黒く残った血の跡。
しばし唖然。何が起こったのかわからなかった。
しかし、15年前の出来事を語るフィゼルさんの顔には、私達を迎えてくださった時とは違う、辛いよ悲しいよ、という思いが滲み出ていた。
彼を思った時、漠然とした多くの悲しみと苦しみが私に雪崩れ込んできた。
もしも仮に、私の親族がここで犠牲者になったならどうだろう。
手榴弾の爆発音や威嚇の銃声で恐怖に怯えた兄弟達、壁に当てるはずの流れ弾に当たったかもしれない。
もしかしたらもっと屈辱的で、長い時間苦しんだかも知れない。
実際はどうだったのかも今や闇の中。
彼の口は事実を淡々と語り、自身の心情を語られなかったのだけれども、彼の痛みが私の痛みになった時、
目の前の事が本当に起こった事で、多くの人が今痛んでいる事を感じた。
目の前のフィゼルさんが悲しむ事、それがルワンダの抱える悲しみ。
私は悲しかった。『絶対に悲しい!!絶対に悲しい!!!』と、私は一人何を言っているのか分からないまま大泣きして車に乗り込んだ。
しばらくの間、ルワンダで語られる神が私にとって痛みだった。
愛も怒りも全て消え、目の前の色が全て褪せてしまった様だった。
十字架が滑稽にすら感じた。私はひどく疲れていた。
反して、ジェノサイドを乗り越えようとしている方々の多くは神様を求めていた。
神様は癒し主、祝福の源と語る。私達のために祈ってくださいとルワンダの方々が言った。
この言葉の多い事といったらなかった。彼らには神様の救いが必要だという事。
実の所、私達の避け所は神様にしかないのだという事実は私にとっては皮肉でもあったのだけれど、
祈る事というのは、私のできる数少ない、最も大きな働きの一つであると感じた。
そして、出会った方々の口から、『近所の方と仲良くし、全ての問題は解けました。』『私達は民族や憎しみから解放され、喜んでいます』と聞く言葉一つ一つは真実であり、
私自身励まされた。再び、神様や人々に仕えたいと思わされた旅でもあった。
短い期間の滞在、もっと何かあるはず、と思いながらあっという間に日本に帰ってきてしまった。
もっと歩きたかったし、もっと話しを聞きたかった。また行きたいと思う。
そして、実はもっと複雑で、困難な問題や事情がルワンダにあると気付いた。
発言の不自由だったり、住居が汚いというだけで取り壊しになる問題だったり、特に貧困の問題は移動する先々、どこにでもついて回ってきた。
知った私達はどうしたらいいのだろう。祈ること。それが私達の応答の一つ。あぁ、またルワンダに行きたい。
最後に、今回私達を支え、祈り、送り出してくださった連盟の方々、女性会の方々、
緑の牧場キリスト教会の方々、一人一人に感謝しています。
迎えてくださった佐々木さんご夫妻、REACHの皆様、そして現地の方々、ツアーメンバー一人一人に感謝。
みなさんに神様の御手が共にありますように、これからの祈りに繋げたい。
なにより神様に心より感謝致します。
天に栄光地に平和
ルワンダ Sさん 日本バプテスト連盟の働きを通して