親と子



ナーウェンというカトリックの神父さんが親と子の関係についてこのように言っています。
少し長いですがご紹介させていただきたいと思います。

「親であるとは、見知らぬ旅人を気前よくもてなすようなものです。・・・・・
私たちは、自分の子供を創造したのでもなければ、所有しているのでもありません。
このことは、私たちにとって福音です。
私たちは、子供の問題すべてに責任があると、自分を責める必要はないし、
子供の成功を自分たちのカだと誇るべきでもないのです。

子供たちは神からの贈り物です。
私たちが彼らのために、心の自由と体の自由を得て成長するための、
安全で愛に満ちた場所を提供するようにと神から与えられたのです。

子供たちは見知らぬ客人のようなものです。
もてなしを求め、よき友となり、そののち、ふたたび彼ら自身の旅を続けるために去っていきます。
まさに贈り物であるがゆえに、計り知れない喜びと、限りない悲しみももたらします。」


今、日本では親子の間で問題が起こることが少なくありません。
いろいろな原因があると思います。
その一つは、親が子どものことを「神様からの贈り物である」ととらえることが出来ないからではないか?と思います。

「自分の子ども」…この「自分の」という所に大きすぎる期待と重荷と責任を抱えてしまっているのではないかと思います。
ナーウェンさんは、「親であるとは、見知らぬ旅人を気前よくもてなすようなものです。」と言いました。
子どもは、ある時、夫婦の間にやってきて、大切にもてなされて育ってゆき、
すばらしい宝物をたくさん夫婦に残して、やがて夫婦旅人のように去って行くのです。


ところが親子の間に大きすぎる期待・重荷・責任を抱えて、
あまりにも近づきすぎるとそれは両手を合わせてゲンコツを作るようなものです。
近い関係なので、お互いを窮屈に拘束します。
また、お互いを傷つけ合ってしまうのです。


でも親子の間の良い関係と言うのは、両手を広げて合わせるような関係だと思います。
お互いに温かさや支えを感じるのですが、でも拘束し合いません。
その両手の合わさった間には空間があります。
その空間の中に、お互いを大事にする心や、尊重する心や、その他の人々や友人達が入って温まることができるのです。
そしてその両手を合わせた形は祈りの形なのです。


「北の国から」という番組がありまして、その最終回が先日放映されました。
この番組は21年間もの長い間に渡って製作されてきたものです。
北海道の富良野というところを主な舞台にして、父親と息子・娘の三人家族の成長のドラマです。
その最終回に、父親が子ども達のことを思いながら、
「目に見えるものを残してやることは出来なかったが、でも残すべきものは残してやったように思う。」と独り言をいうのです。


「目に見えるものを残してやることは出来なかったが、でも残すべきものは残してやったように思う。」
 …それは何か? それは「お前たちは愛されているよ。」というメッセージであると思うのです。

この息子と娘は、成長の過程でいろいろありました。
でもお父さんは受け入れて、信じて、愛し続けた
 …もちろん人間のもつ限りがあるでしょうが…
  「お前たちは愛されている」…
それを残したのだとおもいます。
そしてそれで充分だと思うのです。

夫婦、親子、友人との平和。

何か余分なものがあるために、それを複雑にしているのではないかと反省させられています。


最後に一言 ・・・ おとうさん、おかあさん、あなたはよくやっています。どうもありがとう! 



                                                   

 

 




 



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