宮崎姉妹
私が初めて聖書を読んだのは、18歳のときでした。以来、神様は私にたくさんのものを与えてくださいました。
神様がくださったもの、その1つめは、「私の存在の意味」でした。
それまでの私は、「自分はダメだ」「こんな私ではダメだ」と思っていました。
そのために、小さい頃から神経性の腹痛などのつらい症状に悩まされていました。
当時の私は、なぜ自分にそのような症状がおきるのかわからず、
そういった症状がおきることによってますます自信を失い、消えてしまいたいと思うほどでした。
そんなとき、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」というみことばを知りました。
「自分はダメだ」「ダメな自分は存在する価値がない」
「ダメな自分は愛される価値がない」そう思っていた私に、神様は、
「あなたがダメでも、ダメでなくても関係ない。私はあなたを見捨てない。」そう言われたような気がしました。
私は、それまで感じたことのないような深い安らぎを覚え、そのときから、私のつらい症状は軽くなってゆきました。
2つめは、「父なる神様の愛」でした。
私が聖書と出会う少し前、父が病気で倒れました。
そしてその病気がきっかけで、それまで優しかった父が荒れるようになりました。
父は失語症になり、リハビリによって少しずつ言葉を取り戻すことができたのですが、
家族の名前を思い出すことはできても、家族への信頼は思い出すことができませんでした。
私は、父からの敵意に満ちた言葉に、大切なものを失ったような深い悲しみを感じていました。
しかし、そんな日々の中で、聖書のみことばが私を支えてくれました。
私は毎日聖書を読んでは、「はい」「はい」と答えました。
聖書は私に、私にはもう一人父がいることを教えてくれました。
天にいて、私を見守ってくれる神様、この方を私も「天のお父様」と呼ぶことができる。
しかし、天のお父様は私に、「父母を敬え」とおっしゃる。
父が立派だから、私を愛してくれるからではない。ただ、「父母を敬え」とおっしゃる。
私はやっとの思いで「はい」と答えました。
「天のお父様、私が父を愛しつづけることができるように助けてください。」そう祈りました。
天のお父様が助けてくださる。見守ってくださる。その思いが、私を支えてくれました。
その後、父は家を出ていき、父が荒れることを怖がっていた私は、自分から父と会うこともなくなってしまいました。
ですが、この証を書きながら、ある場面が強烈に思い出されてきました。
それは、私が一人目の子供を出産した次の年、父が私を訪ねてきたときのことです。
父は、旅行に行ったおみやげだと言って、お菓子とテレホンカードを置いていきました。
その旅行先は、以前、家族で行こうと計画していた場所で、直前になって父が仕事を休めなくなり、行けなくなったところでした。
私は楽しみにしていた旅行が中止になって、とてもがっかりしたことを覚えています。
おみやげを渡してくれたときの父はとても優しい顔をしていました。
父はもう亡くなってしまい、もっと優しくすればよかった、もっと会ってあげればよかった、と後悔することがたくさんあります。
ですが、神様のみことばのおかげで父を拒絶せずにすみ、あのような温かい思い出をいただけたことが、とても感謝です。
3つめは、「信頼する心」です。
私は「自分はダメだ」という思いから、人は私を良く思わないのではないか、私は嫌われているかもしれない、という恐れを持っていました。
そのため、人と接するのが怖く、人を信じきれないでいました。
そんなとき、私は、完全に信頼できる一人の人と出会いました。それがイエス様でした。
イエス様はどんなときでも人を愛し、裏切られても人を許しました。
私は、人から裏切られたり、嫌われたりすることをとても怖がっていました。
けれど、イエス様は、裏切られても、嫌われても、人を許し、愛しつづけられました。
私は今でも恐れがないとは言えませんが、それでも、人を愛そう、人を信じようと思えるようになりました。
そしてそれがどんな結果になったとしても、人を恨むまいと思えるようになりました。
神様が私に与えてくださったものは、本当に数え切れないほどあります。
その中で、私が今一番感謝している贈り物は、「希望」です。
子供のころからの心や身体の痛み、父のこと、そしてそれらのために望まない道を選び続けたこと、
今でも「なぜ?」と問いたくなることがあります。
加えて、自分が離婚したことも、8年経った今も解決できない心の痛みとして「なぜ?」と問いたくなってしまいます。
そんなとき神様は、「私はすべてのことを働かせて益とする。
いつか、あなたの痛みを宝に変えてあげよう。」と言ってくださいます。
そして、神様はそのみことばどおり、これまでも宝のような出会いをたくさん与えてくださいました。
それらの出会いは、もしも私が違う人生を歩んできていたなら、決してわかることのできなかった、一つ一つの痛みとの出会いでもありました。
私は今、その一つ一つの痛みとの出会いに、神様の愛を思わされます。
神様がその人たちをどんなに愛しておられるか、神様がその人と共におられることを、どんなに伝えたいと思っておられるか。
私がその人と共にいるとき、神様もその人の声を聞き、その人と一緒に泣いてくださっているように思います。
今はまだ、その痛み、苦しみの意味がわからなくても、いつかきっと、神様が宝にしてくださる。そのお約束が、私の大きな希望となっています。
大好きな話に、刺しゅうのたとえ話があります。
私たちの人生は、神様が天から作ってくださる刺しゅうのようだ、という話です。
私たちは地上にいて、刺しゅうを裏側からしか見ることができません。
いろんな色の糸が交錯し、ごつごつとした結び目があちこちにあるのを見て、
私たちは、「どうしてこんなところにこんな糸があるんだろう?」
「こんなところに結び目などなければいいのに。」そう思います。
そして、天国に行ったとき、完成した刺しゅうを見て、
それらの見栄えの悪い一つ一つの糸や結び目が、すべて私の人生という美しい作品を作るのに必要なものだったことを知るのだそうです。
私は、いつか天国で、神様と一緒にその刺しゅうを見ることをとても楽しみにしています。
「我がたましいよ、主のしてくださったことを何一つ忘れるな。」
これは、私の好きなみことばの一つです。
主のしてくださったこと、主が愛してくださっていることを、私が何一つ忘れることがありませんように。
そう祈りながら、これからも歩んでゆきたいと思います。
ありがとうございました。
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