高校生の時、私は学枚の近くの教会に通うようになりました。
その当時、教会は無牧師で、わずか数人の青年たちが集まっているといった小さな集まりでした。
しばらくして牧師が赴任され、教会の活動は活発になり、私も求道の後、神さまを信じるようになりました。
数人の集まりでしたが、三、四年の間に三十人ほどの集まりへと成長していきました。
その後、私は大学生になり、時間もあったので教会によく通い、また伝道の働きを任されていました。
そしてある時、「人々はどんな気持ちで教会に来られているのだろうか、…」そのような関心から、
新しく教会に来られた方々にアンケ−トを書いていただくことにしたのです。
アンケートの結果、いろいろなことを知ることができたのですが、一つ驚くべき発見をいたしました。
それは、初めて教会に来られた新来会者の半数以上の方々は、
集会に出席するだけではなく誰かと話をしたいと願っておられるということ、
しかしながらその中で牧師と話したいと希望されている方は1%に満たないということでした。
当時、私の教会では、新しく来られた方々に対して、おもに牧師が話しかけていました。
牧師は、「よくおいで下さいました。お名前は何と言われますか?」と笑顔で話しかけておられたわけですが
〜アンケートの結果によると〜実は初めて教会に来られた方々は牧師から話しかけられたくなかったのです。
きっと、まだよくわからないキリスト教の教えに無理矢理入れられてしまうのではないか、という恐れがあったのでしょう。
新しく来られた方々は牧師ではなく、むしろ信徒クリスチャンの生の話を聞きたいと願っておられるのです。
そのことがわかりましたので、その教会では新しく来られた方々の受け皿としてスモ−ルグル−プをつくりました。
礼拝後に数人ごとのグル−プに分かれて、その中に新しく教会に来られた方々を迎え、
三十分間ほど証や礼拝のメッセ−ジについての感想を話し合うという時間を持つようにしたのです。
それはとても好評でしたが、メッセ―ジについて感想を話し合うということについてあまり良く思われない方もおられましたので
結局中止ということになってしまいました。
大学卒業後、私は神学校に行き、牧師になりました。
そして赴任した先で、
以前の教会で行なっていた「礼拝後、三十分くらいスモ−ルグル−プに分かれてメッセ−ジを深め合う」ということを始めました。
その活動は「分級礼拝」という名前にいたしました。
「礼拝」という名前がついているのは、話し合いという自由な雰囲気はありますが、
その活動はイエスさまを中心とした交わりであり自由な形をもった礼拝である、という確認があったからです。
神さまの御言葉は一人で読むのも大変良いけれど、複数の人たちと共に読むことはもっと良いという確信を私はもっています。
たとえば、イエスさまの姿を立体的に著すためには一つの書ではなく、四つの福音書が必要でした。
また聖書も一冊でありながら66巻の合本という形で成り立っています。
神さまの御言葉を一人で聞くだけではなく、複数の人たちで開き、語り、深め合う時、
聖霊さまがさらに豊かに御言葉を開いて下さるのではないでしょうか。
時々、「礼拝のメッセ−ジについて自由に話すようになると牧師非難などが起きませんか?」と心配される先生方もおられますが、
この十数年間の私の経験の中では、そのようなことはほとんどありませんでした。
むしろ教会の方々が得たものは非常に多くありました。
以下、簡単に七つほど挙げさせてください。
1)
自分だけのイエスさまに留まらず、メンバ−の中に多様的に関わって下さるイエスさまに出会うことができます。
イエスさまはお一人であっても、それぞれがイエスさまとの交わりをいただいているのです。
そしてイエスさまは、それぞれに対して独自な交わりを与えていて下さいます。
そのイエスさまについて語り合うことは、イエスさまのすばらしさを多面的に知ることになるのです
2)
分級礼拝の中で御言葉や礼拝メッセ−ジについて深め合う時には、
当然、自分の意見を話したり、他の方々の意見を聞いたりすることになります。
それは御言葉を咀嚼(そしゃく)することになり、その作業を通して、神さまの御言葉を自分のものとしていくことができるのです。
礼拝のメッセ−ジを聞きっぱなしの場合、その内容を月曜日には忘れてしまっているというようなことがあるのではないでしょうか。
分級礼拝に参加された方の場合、そのようなことは非常に稀です。
3)
相互牧会の場となります。
グル−プのメンバ−同士が親しくなるにつれて、自分の持っている問題、悲しみや喜びを吐露するようになります。
その時、分級礼拝は互いに励まし合い、祈り合う場となるのです。
4)
礼拝メッセ−ジの中で語られた言葉や事柄についてわからなかったことなどを尋ねメッセ−ジを消化する場所となります。
教会に来始めて間もない方々にはとても必要な場となります。
5)
チ−ムで伝道する場となります。
分級礼拝のグル−プの中で、未信者の方々に対しての働きかけを計画し、実行します。
6)
分級礼拝は新しい方々を愛の交わりの中に迎える受け皿です。
ある青年はバプテスマを受けた後、以前のことを振り返り、
「私が初めて教会に来た時、分級礼拝の方々が神さまのことを楽しそうに話しておられるのを聞いて、
その時自分もクリスチャンになりたいと決心しました。」と言われました。
7)
教会の形成という視点から考える時、分級礼拝は教会の細胞となります。
その中でリ−ダ−とグル−プが育てられていきます。
牧師は、多くの領域で分級とそのリーダーに委ねることができます。
以上の七つの恵みに加えて、分級礼拝は私の牧会にとって必要不可欠なものとなりました。
分級礼拝の中で話された発言はノ−トに記されますが、
それは私にとって牧会のアンテナとなります。
誰がどんな課題を持っておられるのか、どんな状況におられるのか、求道しておられる方はどのあたりを歩いておられるのか、
またそれ以上に神さまがこの教会に対してどのような導きを与えておられるのかを、広く深く眺め知ることができるのです。
また、分級礼拝の中で出されたいろいろな課題や質問に対して、次の礼拝メッセ−ジの中で応答するということもできます。
さらに、神さまは説教者だけに働いておられるのではなく会衆全体に働いておられるので、
私自身が応答の言葉の数々から豊かに祝福を受けています。
分級礼拝のもよう
さて、以上のような分級礼拝の活動により、最初の赴任地も、また今回の二つ目の教会も特別な問題がなく、
むしろ楽しく牧会をさせていただいておりましたが、二つの課題を感じるようになりました。
一つ目は、教会の活動が会堂中心であり、内向きになってしまっているということ。
二つ目は、礼拝後の三十分間の分級礼拝だけでは、兄弟姉妹としての励まし合いや助け合いが表面的になりやすく、
交わりが未消化に終わっているということでした。
真のクリスチャン共同体を目指して、私たちはさらに本当の教会の在り方を探し求めていく必要を感じました。
分級礼拝の恵みをさらに発展しつつ、しかもこの二つの課題を解決するものとして、
私たちは 「セルグル−プ教会」という教会形成の在り方に出会いました。
1995年11月より、私たちはセルグル−プ教会について情報を集め、セルグル−プ教会がどういうものであるかを把握することに努めました。
その中で以下の2点は特に大切な概念です。
1)
セルグル−プ教会は、聖書に書かれてある初代の教会の在り方を再現しようとするものである。
それは、今までの会堂中心の教会活動から解放されたものである。
(セルグル−プはウィークディに活動し、週一度の集まりはメンバ−の家々を順次まわってもちます)
2)
またそれは、従来からある家庭集会や小グル−プ活動などとは根本的に違うものである。
セルグル−プは教会活動の方法の一部と考えてはいけない。
むしろセルグル−プこそ本質的な教会そのものである。
これらの概念は教会員に紹介され、実際にセルグル−プをしてみようというまでには8ヶ月間かかりました。
試験的に一つのセルグル−プをもったのですが、婦人が週日に集まるセルグル−プで、6カ月間続けました。
とても楽しく、また実りの多い体験でした。
私たちの教会は6年前に開拓伝道で始まった教会です。
まだそれほど歴史はありません。
ですから、セルグル−プに対して1年以上の準備期間を持ったことはずいぶん慎重であったと思えますが、
この準備期間の間に礼拝出席者の平均は40人から65人になりました。
これは、セルグル−プ教会こそ神様から私たちの教会に与えられた使命、ビジョンであり、
私たちが求めていた真のクリスチャン共同体であるということを、私たち自身が確信した結果だと思います。
試験的セルグル−プの結果を踏まえ、1997年春の教会総会で「私たちはセルグル−プ教会となることを目指す」という決議をしました。
そして今では、セルグル−プは私たちの教会に欠くことのできない大切な宝物となっています。
主にある交わりが深められていっているだけでなく、新しい方々が加えられるようになっています。
これからもセルグル−プは次々に細胞増殖を繰り返していくことでしょう。
夢はどんどんと広がっていきます。
人々が迷い、深い不安を抱えている現代の日本にあって、
このような真のクリスチャン共同体がつくられていくことを本当にうれしく思います。
共同体という時、私は神さまのことを思います。
神さまは、父と子と聖霊という共同体を形成されているお方です。
神さまは、独りぼっちのお方ではなく、父と子と聖霊として完全な愛で結ばれ、充足されているお方です。
そのご愛=共同体のお交わりの中に、私たちを招いて下さっている神さまなのです。
そうであるならば、三位一体の神さまがご臨在なさる教会も必然的に真の共同体となっていくはずです。
セルグル−プは、その神さまのご愛と交わりを体験していく場です。
セルグル−プの活動においてセルグル−プリ−ダー(この奉仕者のことを「シェパード」と呼びます)の人選と訓練はとても大切な課題であると思います。
シェパードはセルグル−プの牧会者です。ですから、シェパードになる人には二つの条件が求められると思います。
一つは神様を愛し、自分を愛し、メンバ−を愛しているという条件です。メンバ−のために祈っている人です。
もう一つは、自分の属しているセルグル−プがやがて細胞増殖するというビジョンを持っていることです。
セルグル−プは生きた細胞です。
生きているから成長します。
そして一定期間後(6〜9ヶ月後)には二つの細胞に細胞増殖していくのです。
リ−ダ−はそのビジョンを持ち、ビジョンは喜びと共にメンバ−に浸透していきます。
それぞれのセルグル−プには、細胞増殖後にできるもう一つのセルグル−プのリ−ダ−となるべき人、
つまり次期リーダー候補者「インターン」と呼びます)が必ず一人います。
インタ−ンはシェパ−ドの補佐となりながら、シェパ−ドのそばにいて実際にその働きを見、
体験して、やがてシェパ−ドとなる訓練を受けていくのです。
私たちの教会では、毎週一回、リーダーズセル(リーダーのためのセルグループ/自由参加)と、
短い時間でもつセルグル−プリ−ダ−会をもっています。
セルグル−プを始めたことにより、いくつかの課題も抱えています。
例えば、セルグル−プの毎回の集まりで語り合うテ−マをどのように準備していくかについては、
それぞれのセルグル−プで試行錯誤が続いています。
新しく加わる方々に合わせて、本を使ってみたり、礼拝のメッセ−ジをテ−マにしたりしています。
また、集まりが少なく、元気がなくなってきているセルグル−プについて、セルグル−プリ−ダ−会でその原因について話し合い、祈っています。
さらに、新しくクリスチャンになりたいと願われる方々が次々に出てきた場合のバプテスマ準備クラス
(私たちの教会では「マイル−ツ」という独自のテキストを作り、バプテスマ前に約3カ月間、バプテスマの後に50日間の訓練をします)
を誰がするのかも課題です。
また、セルグル−プについてまだよく納得できていない教会員の方もおられます。
セルグル−プ教会という概念は、今までの私たちの持ち続けてきた教会の概念を超えていますので、
その兄弟姉妹方と納得できるまで話し合い、ビジョンを一つにしていく必要があると思っています。
このように課題はありますが、夢は現実となっていき、主の共同体は広がっていきます。
セルグル−プ教会が日本の至るところに生まれてくるように私たちは祈っています。
酒井敬仁
(以上は「ハーザー」誌1998年1月号に掲載していただいたものに手を加えました。)
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