馬場さん (壮年)





おはようございます。アドベント第2週のときに、キリストの証をさせて頂くことを嬉しくおもいます。

今朝の私のはなしは2つに分かれています。最初に聖書のみ言葉について語ります。

そして、つぎに、そのみ言葉の学びに導かれて、わたし個人の証をさせて頂きます。



今朝、示されています聖書のみ言葉は、ルカ6章20節前半です。

わたしたちの「新改訳聖書」では、「貧しい者は幸いです。」と訳されているところです。

わたしは、この部分について、岩波書店が2003年に出版した、新約聖書翻訳委員会訳を使わせていただきます。

この聖書翻訳は「原典への忠実さ」を大切にしたものです。

この翻訳によるルカ6:20は、「幸いだ、乞食たち」と翻訳されています。


 「幸いだ、乞食たち」新約聖書翻訳委員会訳 岩波書店(ルカ6:20 )

集まった人たちはパンを求めて集まったのではありません。

イエスが語る言葉を聴こうとして集まったのです。

この人たちに向かって「幸いだ、乞食たち」と声を発したのです。

なんという大胆な言葉かけでしょう。イエスの言葉には力があります。

飾りを剥ぎ取って、本質に迫ります。だから、むかつくひとたちもいたでしょう。

しかし、よくよく考えてみると、イエスの言葉を求めてきたというひとびとの行為こそ注目すべきです。

この世に生きて行くのに何も頼りになるもの、誇れるものがないので、何かを求めてきたひとたちですから、

いわば、乞食の心を持つものたちの行為といえます。

これがイエスの発した「乞食たち」なのです。

この地上に、より頼むものが無いひとたちだからこそ、神が支配される余地をもっているのです。

神が身近に来て、こころに入ってくださる余地があるのです。全てを知る神が支配してくださるのです。

だから、神の国は彼らのものなのです。だから幸いなのです。


わたしたち自身のことを考えたら、何を頼りにしていますか。

わたしのこの年齢に達すれば老後の年金ですか。自分の健康ですか。若い世代の人々なら職場での働きですか。

しかし、きょう、交通事故にあうかもしれない身です。心臓発作にあうかも、脳梗塞になるかも知れない。

癌に侵されるかもしれない。年金だって制度不全で、受け取れなくなるかもしれない。

政情不安で国家的に困窮するかもしれない。世界は、このような状況にある国や、人々であふれています。

わたしたちは、よくよく考えれば、みんな本当に頼りになるものをもたない存在なのです。

イエスはわたしたちにこのことを気づかせるために、過激なことば「幸いだ、乞食たち」と声を発したのです。

イエスはわたしたちに対して、自分自身のことを良く考えてみなさいと問いかけられているのです。

本当に頼りになるものをもっていないのではないですか。

全ては、ただ必要に応じて与えられてきたものではありませんか。

これらのものは場合によっては一瞬にして消え去るものです。

わたしたちはただ生かされている存在です。

神を見上げ、御国を来たらせたまえと祈り求めるほかないではありませんか。



それでは、これから私の証しをいたします。

ある日曜日、教会へ向かう車の中で、妻が「あなたは、定年後をどう過ごしたいのか」と問いました。

わたしは「『主の祈り』のような生活」と答えました。

すると妻は「I am proud of you.」といいました。英語での表現になりましたが、日本語では照れくさくて、いいにくかったのでしょう。

「あなたのことを誇りにおもう」という意味の答えでしたから、わたしは嬉しくおもいました。

わたしの一方的な思いかもしれませんが、わたしたちのこころが一致したと思いました。これは嬉しいことです。


主の祈りは、「天にましますわれらの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と教えています。

まず、「御名を崇めさせたまえ」と祈ることが初めにあります。

長かった職業生活もその定年が近くなってくると、自分の人生をふりかえりたくなります。

このようなときに、どうしても抱く問いは「人間とはなにか」という基本的な問いです。

若い人たちも同じような問いをもって、これから踏み出す人生を考えるのですが、年をとってきたものも、おなじ問いをもちます。

長い人生を振り返り、自分自身をもう一度みつめたいという心境になります。

そして自分は人間として今後、どういう生き方をするかということを自らに問うていきます。


2年前でした、緑の牧場教会での朝の礼拝が始まる前の静かなときに、

ある啓示のように、わたしに与えられた思いがありました。

それは「礼拝するから人間でありうるのだ」とい思いです。

それ以来、「人間とは」というテーマで、いろいろと書物を読んだり考えたり、教会の分級で思いを分かち合ったりしてきました。

そして、「神を崇めるから人間になる」のだという思いに至りました。

「人はパンのみで生きるのではない。むしろ神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という人間認識です。

丁度、妻がわたしに定年後の生き方について問うたころでした。

それで、妻の問いに対し、「主の祈りのような生活」と言う答えが示されたのです。

わたしは、ミレーの晩鐘の絵が好きです。

一日の働きを共に感謝して祈りで終わるような生活をしていきたいとおもっています。



イエスが「幸いだ、乞食よ」と教えられたこと、なにも頼るものがなく、ただ神を崇め、

御国がきますようにと祈る生き方こそ、わたしたちに与えられていることだと思います。

そのときに「神の国はあなたがたのものだ」という幸いに入らせていただきます。

以上で証しを終わります。

アドベントの日々をみなさまと共に過ごせることを感謝いたします。


緑の牧場キリスト教会 2008年12月7日 礼拝のなかで



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